香川県議会議員 岡野しゅりこの おいたち・経歴
Career
香川県議会議員 岡野しゅりこの経歴
Career
- 1980年
- 桜町幼稚園卒業
- 1986年
- 高松市立栗林小学校卒業
- 1989年
- 高松市立桜町中学校卒業
- 1992年
- 香川県立高松西高等学校卒業(1年間アメリカユタ州に留学)
- 1992年~
1996年 -
日本福祉大学社会福祉学部に入学。
立命館大学国際関係学部に転学し卒業
- 1973年
- 参議院議員 桜井充 秘書
- 2019年
- 高松市議会議員2期
香川県議会議員 岡野しゅりこの現在
Current
- 香川県議会議員3期目
- 香川県経済委員会委員長
- 自由民主党香川県連女性局長
- 少子化対策特別委員会委員長
香川県議会議員 岡野しゅりこの自己紹介
introduction
- 趣味
- お料理・読書・釣り
- 尊敬する人
- マザーテレサ
- 座右の銘
- 力愛不二
- 家族
- 息子2人(15歳)
香川県議会議員 岡野しゅりこのおいたち
Personal History
1973年6月16日生まれ
サラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれる。
マザーテレサの活動を学ぶ
カトリックの幼稚園に通っていたころ、毎日のように教会で神父様からマザーテレサの物語を読み聞かせてもらいました。世界には、ご飯も食べられず親に愛されず、育つ子どもがたくさんいる事に衝撃を受けました。
私は、世界の貧困や飢餓で苦しむ子どもたちをテレビで見るたびに、私も、大人になったらマザーテレサのように世界中にいる貧しい子どもたちを助けることが出来る人になりたい、という思いを強くしました。
マザーテレサに会う。
1年生の時に母が会社を興し、鍵っ子に。
まだ、男女共同参画という言葉もない時代、女性の権利を拡充するために、男性と女性との不平等な社会を変えていこう、と母はこぶしを振り上げた運動をしていました。
私は、そんな母をすぐそばで見ながら、そんなに頑張らないと、権利って得られないものなのだ、と学ぶと同時に、性別によって社会の中での役割や負担や可能性が変わってしまう事を知りました。
2年生の時いつかマザーテレサに会いたいという願いが叶うことに… 「世界宗教者平和会議」出席するための来日。
「誰からも必要とされず、誰からも愛されていない、という心の貧しさ。
豊かさの中で貧しさを忘れないで」彼女が日本に残したメッセージ。
あらためて、マザーテレサのように人の役に立ちたいと思いました。
3 年生からソフトボールを始める。故大橋監督には本当によく大声で叱られました。
最初の選挙では、いつも一番前の席で私の演説を聞いていてくれました。
この頃、母の親戚から戦争の時の話や、終戦時、母たちが北朝鮮から鹿児島まで引き揚げた時の話を聞き、戦争を繰り返さないためにどうすればよいのか、考えるように… 。
母が地域支援のために里親を始める。
引き続きソフトボール部でした。
頭部や、鼻に、ボールがあたり、顔を腫らしたり、鼻血をだしたり… 男の子のようでした。
また母が、地域やその周辺に暮らす様々なご家庭や子どもたちの支援を始めました。
その後、家庭の事情で親元で生活できない子どもたちをお預かりする里親登録をし、親から暴力を受ける子どもたち、経済的に貧しくご飯も食べれない子どもたちがごくごく身近にたくさんいることを知りました。
私は、同じ国、同じ地域に生まれても、どの家に生まれたかで子どもの人生が大きく変わってしまう事を知りました。
その家に生まれた子どもたちには何も責任はない、彼らがその格差を乗り越えるための支援をしたいと。
留学で海外の文化を学ぶ。
ハンドボール部に入部(ソフトボール部が無かったため)練習中に左手首を2回も骨折し、相変わらず怪我をよくしていました。
高校2年生の夏から1年間アメリカユタ州に留学。
ホストファミリーや仲間に恵まれ、本当に幸せな一年を過ごす。
文化、戦争観、宗教、といろんな価値観を肌で感じた一年でもありました。
日本に帰国し、2年生を留年。
受験生になっても、幼稚園の頃から変わらない、いつか世界の紛争や貧困に取り組みたい、という夢のために勉強を。
日本への思いが生まれる。
児童福祉・国際協力を学びたくて、進学。
大学時代は、児童養護施設での週3回学習ボランティア、障害児福祉施設で泊まりこみの介助ボランティア、筋ジストロフィーの女性の在宅介護ボランティアスタッフ、障害を持つ人とペアで旅行に行くサークル活動等、現場に出ることに明け暮れました。
そんな経験からそれまでは海外に関心が強かったけれど、日本国内の問題にもっと関心を持つようになりました。
私は、ハンディを抱える子どもたちの育つ環境を整え、社会でそれぞれの力を発揮できるようにするには、福祉の在り方、仕組み、ルールを変えるしかなないのではないか、と考えるようになりました。
そして、そのためには政治の力が必要だとの思いに辿り着き、3年生に京都府の立命館大学へ編入を決断。
ただ、20 歳のころ発病した拒食症で、少しずつ、少しずつ、体重が減り始める。
立命館大学国際関係学部政治経済学科へ編入
とにかく、政治学、そして国際関係の微妙なバランスなど、いろんな考え方を学び自分がその気になれば、学べる環境が整っていたことに感動しました。
しかしながら、私はその時すでに、拒食症に脳も体も心もどっぷり漬かっていたのです。大学を変わった時、体重が31キロ(160センチ)しかなく、両親には内緒にしたまま大学病院などを一人で受診していましたが、 当時はまだまだ拒食症に関する研究は進んでおらず、専門医も少なく、どうしても、食べ物を口にすることができるようにはなりませんでした。
みるみる間に痩せは進行し、遂に4年生の帰省後には大阪で倒れてしまい、大学から両親に連絡がいき、家族会議の結果、母が、会社を人に託して私と大学の近くに住み病院と大学と伯父から受けるハリ治療に同行するということになりました。
入院が必要なレベルであったが私はそれを断固拒否し、大学へ通い続けました。
その時の体重は22キロで、歩くこともままならず、しゃべる体力も、泣く体力もありませんでした。
死を覚悟。暖かい地でDr.アンソニーに出会う。
卒論完成後には骨に寒さがしみて全身が痛み出すようになり、母の提案のもと暖かいオーストラリアへ向かいました。
シドニーに行ったとはいえ、動けない私は、毎日ただただ海を見て過ごしました。そして数週間たったある日、いつも散歩をしている老夫婦から、
「私は、昔日本法人で働いていて日本人にとても親切にしてもらいました。だから、今後は私が日本人のあなたに恩返しがしたい。
何かお役に立つことはないですか? 」と言ってもらいました。そして一緒に彼らのホームドクターの所に連れて行って下さいました。
そこから専門医であるシドニー大学病院心療内科の医師を紹介してもらい、出会ったのが、Dr.アンソニーです。
「君が朱里子ですね。朱里子、僕に会うまで生きていてくれて本当にありがとう」そう言って、力強く私を抱きしめてくれました。
そして次に、母の方を向き「君が美千代ですね。美千代、朱里子を生きて僕に会わせてくれてありがとう」そして、また力強く母を抱きしめました。
その瞬間、私たち親子の中で何かが確実に変わりました。それから1 時間ほどのセッションの間に、驚くことに私は数年ぶりに空腹感を感じました。
帰り道、朱里子さんは母が買ってきたサンドウィッチに手を伸ばし、そして、食べた。
その日から私は、発症後初めて拒食症と戦うと決断。
母と異国の地で暮らした8 ヶ月。私は日本に帰国しました。その後2 年間をかけて体重は40 キロ以上になり、拒食症を克服することができました。
人生を歩き直すと決断
養護施設に暮らす子どもたちに背中を押されてもう一度自分の人生を歩きなおすことができた日でした。
27歳でした。
まだまだ病気の回復期の過食症状を抱えていた私は、羽田空港から浜松町までのモノレールの窓からの風景を不安いっぱいで見ていたことを忘れません。
養護施設でのボランティアもさせてもらいました。
誰も知らない土地で一人で生活をする。そんな当たり前の事でも、当時の私にとっては大きな選択で、それをできたことで、病気は格段に良くなりました。
東京での生活は紆余曲折ありましたが、私は幸運にも、上京から1年後、政治の仕事に就くことができました。桜井充さんという尊敬する議員に出会い、政治、政策を学びました。
そしてある日、桜井さんから、「高松に帰りなさい。選挙に出て、自分の足で立って、僕を通してではなく、あなた自身の力で誰かの役に立ちなさい」と「どうしようもない苦しみを味わったあなただから、きっと、良い政治家になれる」と言ってもらいました。
随分悩みました。
両親も反対しました。
それでも、私の子どものころからの「構造的暴力」と戦いたいという志を遂げたいこと、そして、私に関わって下さったたくさんの方々のおかげで、
命、人生を取り返せたことに深く感謝をして政治家として仕事で恩返しをしていきたい。
そんな強い思いから、高松に帰り立候補することを決断しました。